店長のお散歩日記
◎仙台駅
2021年01月06日
向田邦子さんのお父さんが仙台に
転勤になったが、向田さんは東京の祖母の家で
弟と暮らし、東京で通学していた。
夏休みと冬休みだけ仙台の両親の許へ
帰っていた。
当時東京は極度の食糧不足。
たまに帰省すると別天地のように
仙台は豊かであった。とエッセイ集
「父の詫び状」に載せられてる。
向田さんが東京と仙台を行き来したのは
「啼くな小鳩よ」いう歌が流行ってた頃だから
昭和22年、23年だ。
UPしてる仙台駅の写真は
昭和34年~50年頃と思われる。
東北新幹線の話が上がる前だ。
この写真を呉れたご本人がまだ
昭和の女学生の頃だろう。
自分が初めて仙台駅に降り立ったのは
2011年の晩秋。
駅弁を買い、東北新幹線に乗り込んだのは
もう夕方だった。
青森まで向った。
車窓から見えるのは街の光りだけ。
それも2,30分のすると、ほとんど街の
光りが見えなくなってきた。
震災の影響か?
楽しみの駅弁の味も忘れる
夜行列車になった。
火ノ浦久雄
転勤になったが、向田さんは東京の祖母の家で
弟と暮らし、東京で通学していた。
夏休みと冬休みだけ仙台の両親の許へ
帰っていた。
当時東京は極度の食糧不足。
たまに帰省すると別天地のように
仙台は豊かであった。とエッセイ集
「父の詫び状」に載せられてる。
向田さんが東京と仙台を行き来したのは
「啼くな小鳩よ」いう歌が流行ってた頃だから
昭和22年、23年だ。
UPしてる仙台駅の写真は
昭和34年~50年頃と思われる。
東北新幹線の話が上がる前だ。
この写真を呉れたご本人がまだ
昭和の女学生の頃だろう。
自分が初めて仙台駅に降り立ったのは
2011年の晩秋。
駅弁を買い、東北新幹線に乗り込んだのは
もう夕方だった。
青森まで向った。
車窓から見えるのは街の光りだけ。
それも2,30分のすると、ほとんど街の
光りが見えなくなってきた。
震災の影響か?
楽しみの駅弁の味も忘れる
夜行列車になった。
火ノ浦久雄